ずいぶん昔に、河合隼雄さんの『人の心はどこまでわかるか』という本を買った。河合さんは故人となった。この中に、時々本棚から取り出して読み返したくなる一節がある。
(以下、引用)
…
「一応外見は普通にしてないと、この世に生きていけないからね。普通の人になるということは大変にさびしいことなんですよ。だからぼくは、心理療法というのは、普通の人にするのが目的ではないと思っているんです」
…(略)…
私たちがこの世で生きていくためには、妄想があるより、ないほうが楽に生きられます。また、当人も、おそらく妄想があるより、普通になったほうが楽だと思っておられることでしょう。だからこそ、それを治してもらいたくて相談に来るわけですから。
この点に関して、私には忘れられない経験があります。
かなり症状が深い人でしたが、私のところで話をしたり、箱庭などをつくったりしているうちに、感覚が研ぎ澄まされてきたのか、そんなことは全然なかった人が、急にクラッシック音楽をすごく好きになったり、むずかしい小説などを読むようになったりしだしたのです。たとえば、三島由紀夫の小説を読んできて、そのことを感激して話され、それにはこちらも聴いていて感心するほどでした。しかし、その人自身は、「私はいつになったら治るんでしょうか」と言って、しきりに普通の生活をしたがっているのです。
そこで私は、「だけど、普通になるということは、朝起きてコーヒー飲んで、新聞読んで、満員電車に乘って、会社で決まりきった生活をして帰ってくるだけなんですよ。いま、あなたはそんなことはせずに、クラッシック音楽を聴いても、小説を読んでも、私らの理解を超えるくらいすごいじゃないですか。それに比べたら、そこらのみんな同じ生活をしている人たちと同じになるなんて、つまらんじゃないですか」と言いました。
すると彼は、はっきりした口調でこう言いました。
「先生、ぼくはそういう普通のことがしたいのです」
これには、私も愕然とさせられました。
しかし、そういうこともすべてわかった上で、だからといって、私たちが普通の人をつくろうとしだしたらよくないのではないか、というのが私の考えです。
…(略)…
以前、がんこな幻聴に悩まされていた人が私のところに来ていました。私と会っているうちにそれが完全になくなったらしく、「このごろ、幻聴がまったくなくなりました」と言うので、「それで、どんな感じですか」と聞いたところ、こう言われました。
「なんか、年来の友人を失ったような心境です」
やはりがんこな幻聴に悩まされているという芸術家の方が来たこともありました。「先生、この幻聴を、なんとかしてくれませんか」というわけです。そこで私はこう言いました。
「幻聴を取ろうと思えば取ることはできるでしょう。ただ、幻聴はなくなったけど、それによってあなたの芸術家としての独創性もなくなってしまったということになる可能性もありますよ」
そうしたところ、「しばらく考えさせてください」と言って、その日は帰っていかれました。そして、数日後に連絡があって、「よくよく考えてみましたが、もう少しこいつ(幻聴)とつきあってみることにしました」とのことでした。
…(略)…
普通の生活ができない苦しみと、普通の生活ができるようになった苦しみと、両方があるということを、私たちはつねに念頭に置いてクライエントと接していかなければなりません。
~『人の心はどこまでわかるか』河合隼雄 講談社+α新書 より~