村上春樹のエッセイ集、『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』(マガジンハウス/2011年)を読んだ。雑誌アンアンに連載されていたエッセイをまとめたもので、一回分が3ページしかなく、ちょっとした時間にちょっとずつ読める。
最近布団に入るとすぐに眠くなってしまって、長い小説などは前後に行ったり来たりしてなかなか結末までたどり着けないのだけれども、この本はそういう時にちょっとずつ読むのにとても適している。
この本の中で、村上春樹は、エッセイを書くに際しての3つの原則を挙げている。人の悪口を具体的に書かないこと、言い訳や自慢をなるべく書かないようにすること、時事的な話題は避けること。しかし、この3つの条件をクリアしようとすると、話題は限りなく「どうでもいいような話」に近づいていくのだと言う。
…僕は個人的には「どうでもいいような話」がわりに好きなので、それはそれでかまわないんだけど、ときどき「お前のエッセイには何のメッセージもない。ふにゃふにゃしていて、思想性がなく、紙の無駄づかいだ」みたいな批判を世間で受けることがあって、そう言われると「ほんとうにそうだよな」と思うし、また反省もする。…
と、作家本人はそう書いているが、「どうでもいいような話」の連載をこうしてまとめて読んでみると、そこにはやっぱり何かしら一貫したメッセージが感じられる。それぞれの人間は、それぞれの「どうでもいいような」日常を、それぞれ大切にしながら生きているのだ、ということが、伝わってくる。
本のタイトルの『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』は、エッセイの中の「おおきなかぶ」という話と「アボガドはむずかしい」という話、ふたつの題名をならべたもので、前者は有名なロシア民話を題材とした話、後者は熟したアボガドを見分けるのはむずかしいという話で、それぞれの個別で具体的な話には何ら特別なところがない、つまり「どうでもいいような話」にもかかわらず、そのふたつを『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』と並べると、そこに不思議な空間が現れる。「おおきいかぶ」と「むずかしいアボガド」という尺度の違う比べようのないものを並列に置くことによって、相関性のないふたつの世界が同時に成立する空間を作りだしている。
小説を通して世界に向けられた村上春樹のメッセージが、エッセイでもまた同じように世界に向けて語られている。
夜ごと読むたびにページ数が残り少なくなっていくのが惜しいと思う珠玉のエッセイ集であった。