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2010 (94)
2011 (140)
先日テレビで、三輪明宏が、少年が駅のホームから人を突き落として死なせた事件に関して、想像力を育てないからいけない、というようなことを言っていた。
社会のしくみが整い、便利で規格化された世の中になればなるほど、規格に合った人間を育てるのが「教育」というものであるように見受けられる(そうでなければ、秩序ある安定した社会が脅かされるのだから)。国民一人一人が健康で安全な生活を送ることができるように国家が配慮する、それが現代の国家の第一義の目的であるならば、国家が国民の生活に隅々まで目を配り管理することが必要であって、そういうシステムに組み込まれた機関によって行われる教育で想像力を養うことはひどく困難なことではないだろうかと思う。想像力を養うこととは、規定に沿った考え方から常に逸脱する思考を育てることなのだから。
国家として安全で秩序ある豊かな国家を形成しようとすることと、個人としての人生の豊かさを養うこととは根本的に相容れないものなのかもしれない。
自分とは関係のない人間に対して生命としての繋がりを感じないような感覚、三輪さんの言うところの「想像力のない人間」の方が、実は集団や組織にとっては都合がいいこともある。
例えば、もし他人も自分と同じ命を持っていて、自分の命を大事にするように他人の命も大事にしよう、という考え方が絶対的な真理であってそれを推奨するのならば、戦争が起こった時、どういう論理で国民を戦地に赴かせることができるだろう。どうして人を殺せと命じることができるのだろう。ああ、そうだ、人を殺せと命じるだけではない、国家は、自身の国民に対しても、その命を捨てに行きなさい、と命じることができるのだ。この時、権力への服従は、個人の大切な命をも上回る絶対的なものでなくてはならないし、個人の命に対しては鈍感にならなければならない。
国家が教育を管理するというのは、そういう可能性も含めて、管理社会にとって管理しやすい人間を育てるという意味を持っているのだと思う。