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三つ子の魂

(2007-06-18 02:17:53) 下一个
  三つ子の魂百まで、と言うように、人の気質というのは子供の頃からずっと変わらないものなのだろう。時々自分の性格にうんざりすることがあるけれど、これはもう一生付き合わざるを得ないものだと諦めている。
   昔は自分が何者にでもなれるのだと信じていた。意思の力を信じていた。特に学生の身分であるときは、自分の進路は今現在、単に保留されているのであって、自分の意思で何かを選択するまでは何者にでもなれる可能性を自分は所有しているのだと漠然と思っていた。しかし振り返ってみると、人生の行路というものは、もっとずっと早い時期に方向性が決定付けられているに違いない。三つ子の魂が志向するものは、十四のときも、二十歳のときも、そして四十になっても六十になってもきっと変わらないものなのだ。道は始めから特定の方角に向かってまっすぐに伸びている。
    こういうふうに意思の力を軽視し运命に身をゆだねることを是とする私自身の考え方自体に、己の力で人生を切り開こうという力の欠如という本質が表れているのかもしれないと思うと、やっぱりうんざりせざるを得ないのだけれども。

  そんなことを考えていたら、ふと、夏目漱石の小説『行人』を思い出した。その中に次のような一節がある。

  ……
 
彼女は初めから运命なら畏れないという宗教心を、自分一人で持って生まれた女らしかった。その代り他人の运命も畏れないという性質にも見えた。
   「男は厭になりさえすれば二郎さんみたいに何処へでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。あたしなんか丁度親の手で植付けられた钵植のようなもので一遍植えられたが最後、誰
か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立ち枯れになるまでじっとしているより外に仕方がないんですもの。」
    自分は気の毒そうに見えるこの訴えの裏面に、測るべからざる女性の強さを電気のように感じた。
……

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